goodschooldays’s blog

発達障害があるために学校や日常生活で困っている子ども達を応援するための親の会です。 らっこの会 (東村山 困っている子ども達を応援する親の会)

虐待死事件に思うこと

大阪市西淀川区7歳男児暴行死事件」が報道されています。


2年ほど前のことが思い出されます。

あるお母さんから、自分のお子さんのクラスで、学校を休みがちの子がいて、出てくると体や顔にあざを作っていて、周りの保護者達もとても心配しているという話を聞きました。行政の方に相談すると、担当部署で聞き取りをしたいということで、該当部署で知っている限りのことを話しました。結局そのお子さんは学校に来なくなり引っ越してしまったと、後日、そのお母さんから聞き、胸が詰まる思いでそのお子さんのことがずっと心にひっかかったまま今日に至っています。


虐待というと「なんて親なんだ!」という声が必ず上がります。当然です。以前なら自分も同様の怒りを感じていたと思います。けれども、発達障害のある子ども達のことを知るにつれ、このような事件を起こした親を非難するだけで思考を停止してはいけないのはないかと強く思うようになりました。


今回の事件について報道されている断片的な情報から見えてくるのは、母親が泣いてばかりいる我が子の子育てにいっぱいいっぱいな状況だったということ、そしてそのことを訴えながら、それでもその子を育てようとしていたこと、そして、児童相談所などの支援機関もそのことを把握していたこと、でも事故を防げなかったこと。


母親はある日突然鬼畜のようになったのではないでしょう。その子を上手に育てたい、何とかしたい、そういう気持ちがあるのにうまくいかない現実を前に、暴走する自分を、壊れていく自分をとめられなくなっていく。本人もきっと怖かったのではないかと思います。


子ども達にまったく手を出したことがない親御さんは本当に立派だと思います。行き詰って、子どもの頭をはたいてしまったり、子どもと本気になって格闘してしまった結果お互いにあざを作ってしまったり、そういう経験をしてみて初めて、自分で自分の気持ちを立て直すことや、「助けて!」と周りにいうことの重要性に気づくのではないかと思います。自分で気持ちを立て直したり、助けて!と意思表示が出来る人、出来るうちはなんとかなります。でもそれが出来ない環境にあったり、出来ない精神状態になっていたり、あるいは、親御さん自身が生きにくさを抱えていたりしたらどうでしょう。


母親のしてしまったことは罪深いこと。本当に罪深いことです。


けれども、この事件の場合も、また同様の事件の場合も、犠牲になっている子ども達に共通することがあるように思います。


親が「育てにくさ」を感じていた。


事件が起こる度に、


また「育てにくい」子どもの子育てに失敗した母親が鬼母と呼ばれている。
また「育てにくい」子どもが犠牲になった。
また「育てにくい」子どもとその親が社会からこぼれてしまった。

そう思うと、胸がつまります。



自分が切羽詰まった気持ちの時は、臨床心理士さんに時々話を聞いて頂きました。そのうちのお1人が「こうやってお話しに来てくれるお母さんはいいんですよ、ここに出てこられないお母さんたちをどうにかしてあげないと」とおっしゃいました。


学校でいつも時間をかけて話を聞いてくださった先生が、「お宅のお子さんはいいですよ。お母さんがこうしてお子さんに時間を割いてあげられますから。そうじゃないお子さんたちをどうにかしてあげないと」とおっしゃいました。


自分はたまたま、周りに助けてほしいと言えて、幸運なことにそれに応えてくださる、助けてくださる方々に恵まれた。そのような気がします。



子育てというのは、親だけで出来るものではありません。
特に障害の診断にかかわらず、「育てにくい」と言われる子ども達を育てる場合、
自分を立てておくことが必要です。
立てておくというのは分かりにくいでしょうか。
平常心を保つといえばいいでしょうか。
薬を飲みながら戦っているお母さんもいます。
カウンセリングを受けながら戦っているお母さんもいます。



例えば、発達障害児の親が子どもと同様の生きにくさを抱えるケースが少なくないという報告もあります。親子で支援が必要なケースです。それを専門家や支援機関の方々が見逃さず、必要な場所に繋いで支援してゆくしくみを整える必要を痛感します。



市議会9月定例会での一般質問では島田久仁議員が「『発達に心配のある子どもと家族』を支える仕組みのあり方について」というテーマで一般質問をされます。私達にとって身近で、なおかつタイムリーなテーマでもあり、非常に注目しています。