goodschooldays’s blog

発達障害があるために学校や日常生活で困っている子ども達を応援するための親の会です。 らっこの会 (東村山 困っている子ども達を応援する親の会)

清瀬市 発達障害 殺害初公判

タイトルにある3つのキーワードでググると読売新聞の記事が見つかります。


昨年1月、清瀬市で起きた発達障害児殺害事件の裁判員裁判の初公判の記事です。


http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/tokyotama/news/20120113-OYT8T00619.htm


冒頭陳述で、検察側はまず犯行の約1年前に、長男に軽度知的障害と広汎性発達障害があると知ってから、その将来を悲観して思い悩むようになった経緯を明らかにした。犯行の約3週間前には、長男や長女を道連れに自殺しようと家出し、自殺を思いとどまった後、被告の夫や双方の両親が心配して気にかけるようになったが、「自分が思い悩んでいる状況を相談することはなかった」と述べた。(記事より抜粋)



お隣の清瀬市での事件です。

以前、私はこのブログでこんなことを書いています。


自分が切羽詰まった気持ちの時は、臨床心理士さんに時々話を聞いて頂きました。そのうちのお1人が「こうやってお話しに来てくれるお母さんはいいんですよ、ここに出てこられないお母さんたちをどうにかしてあげないと」とおっしゃいました。


新聞報道によると、被告である36歳のお母さんは「自分が思い悩んでいる状況を相談することはなかった」と。

三者が訳知り顔で何か言うのは控えるべきだと思いますが、この事件の場合も、このお母さんが身近な人達に相談出来たり、励ましあえる人達と繋がることが出来ていたら、もしかしたらこんな形でこの男の子は命を落とさなくても済んだのではないかと思ってしまいます。


弁護側は「社会生活を続けながら更生できるよう、執行猶予付きの判決を求めた。」

ということです。


似たような立場の保護者同士が井戸端会議で「新聞に載らないように頑張ろう」などと言い合うことがあります。


事情を知らない人達が聞いたら間違いなくぎょっとする会話でしょう。


けれども、本気でそう思うような切羽詰まった局面がなくもない、そういう状況下で日常生活を送っている親子があちらにも、こちらにもいるんですよね。


「子どもに障害がある」ことが分かっても、悲観しないで生きていける社会は、日本で実現できるでしょうか。

障害のある子どもの保護者が生き生きと生きている様子をそのお母さんが見ていたら、息子に手をかけたでしょうか。


障害が特別なものとされている限り、こういう事件はなくならないでしょうね。

うまいたとえではないかもしれませんが、まっすぐで見た目が綺麗なきゅうりばかりを好む、そういう社会が病んでいるのかもしれないって最近は考えられるようになってきましたが、皆さんはどうですか?でこぼこがあったり、曲がっていたら嫌がられてしまうのは、おかしいのかも。

多様性ってことばがよく聞かれますが、私達が生活している社会は多様性を許容していますか?包容出来ていますか?どうかなぁ、だめだめなんじゃない?

でも今出来ていなくても、未来には出来ているかもしれないですね。